―二十年前
萌香と翔平は幼馴染だった。同じ幼稚園に手を繋ぎ通っていた。翔平は泣き虫で、萌香がその頭を撫でて微笑んだ。僕、お父さんがいないんだ。翔平の父親は若くしてガンで亡くなっていた。
「寂しくないよ、萌香が翔ちゃんのお嫁さんになってあげる」
萌香は、青くさい草の匂いがする三つ葉のクローバーで指輪を作り、その指にはめた。
久我の母親と翔平は、萌香の実家、浅葱家と家族ぐるみで付き合い、賑やかな日々を送った。翔平は息子のように可愛がられ、萌香は彼を兄のように慕った。やがて二人は恋人として手を繋ぎ、桜の樹の下でキスを交わした。けれど、その幸せな時間は花びらのように散ってしまった。
三年前、萌香の父親が運転する車が崖下に転落した。助手席には翔平の母親が乗っていた。二人は即死だった。警察の現場検証で父親のスマートフォンが見つかった。そこには俄に信じられないメッセージが残されていた。
(私たちは真剣に愛し合っている。全てを捨て)
文章はそこで途切れていた。ただ、萌香の父親と翔平の母親が不倫関係にあり、駆け落ちを試みようとしていたことは明白だった。交通事故の一報を聞いた母親は脳溢血を起こし、救急搬送されたが昏睡状態に陥った。
涙のような小雨が降っていた。読経が響く寺院には、大手製薬会社CEOのご母堂の葬儀ということもあり、多くの参列者が列を成した。
「この度は、ご愁傷様でした」
萌香は、翔平の母親の遺影を見上げ手を合わせた。白い菊の祭壇で微笑む彼女は優しく、涙が込み上げた。焼香をする指先が震え数珠が音を立てた。萌香が翔平の前に進み出て深々とお辞儀をすると、翔平は萌香の襟首を掴み上げた。
「俺はおまえたちを、おまえの父親を許さない!」
「ご、ごめんなさい!」
翔平は、雨の回廊に萌香を叩き出した。その目は怒りとも悲しみともいえない色をしていた。萌香は雨に濡れながらも跪いて、父親が犯した罪を謝罪した。
「ごめんなさい!翔平くんごめんなさい!」
翔平は踵を返し、無言で振り向くことなく葬儀場へと入って行った。大丈夫ですか?萌香は葬儀係員から差し出された白い傘を受け取り立ち上がった。ありがとうございます、お騒がせしました。白い傘は足取りも重く、鉛を引き摺るように寺院を後にした。
そして、葬儀から四十九日が明けた頃、曇天から一筋の光が差した。
萌香は父親の位牌を手に、自宅の座敷に座り込み仏壇を眺めていた。自分の父親の死も、身が引き裂かれそうに悲しく、大声をあげて泣き叫びたかった。けれど、父親のように慕っていた男の裏切り、母親に見捨てられた翔平の悲しみを思うと、不思議と涙は出なかった。
不意にインターフォンが鳴った。弔問客かと思いモニターを覗くと、そこには黄色い菊の花束を持ったスーツ姿の翔平が立っていた。
「萌香、いるか?」
「しょ、翔平くん!今開けるから!」
座敷テーブルに座った翔平の表情は、葬儀場で見せたものとは真逆で、穏やかな顔をしていた。これ、おじさんに。黄色い菊の花束を供えてくれと萌香の手に手渡した。
「あ、ありがとう・・・」
いつもと変わらぬ翔平の笑顔に、緊張の糸が切れた萌香の目頭が熱くなった。ポロリと溢れる涙に、翔平は優しい微笑みを湛え、指ですくった。
「萌香、俺と結婚してくれないか?」
「・・・・え?」
翔平は萌香の震える手をとって肩を抱いた。その目は深い森のように穏やかで、父親が起こした罪すら包み込むような慈愛に満ちていた。
「俺が君を助ける。一緒にこの苦しみを乗り越えていこう」
「翔平くん・・・」
「お義母さんの医療費も俺が負担する、心配することはないよ」
翔平は、久我製薬株式会社のCEOを務めていた。母親の高額な医療費の支払いに途方に暮れていた萌香にとって、それは有難い申し出だった。けれど、こんな自分が幸せになっていいのだろうか?戸惑う萌香の耳元で翔平が囁く。
「萌香、俺には萌香しかいない」
その瞳に嘘偽りはなかったが、萌香は葬儀場での一件もあり、返答に戸惑った。
「翔平くん、ありがとう。いいの?こんな私で」
「萌香だから、いいんだよ」
どうしても萌香がいい、萌香しか考えられない。悩んだ挙句、萌香は翔平のプロポーズを受け入れた。
(萌香でないと意味がないからな)
けれど翔平の笑顔の裏側に、萌香とその母親に対する激しい憎しみと葛藤が芽生えていることに、彼女はまだ気付いていなかった。
第四十章萌香は港区の三十五階建てマンションを振り仰いだ。風が彼女の長い髪を捲き上げ、まるで自分を拒絶するかのような冷たい箱がそこにあった。ここはかつて萌香の自宅だった。エレベーターのガラスに映る彼女の表情は、毅然として美しかった。真実の愛を手に入れ、克己の母となった今、彼女は過去の自分とは違っていた。ショルダーバッグには、萌香のサインが入った離婚届が静かに収まっている。萌香は今、翔平という過去と決別する覚悟を固めていた。エレベーターが上昇する中、彼女は克己の笑顔と克典の温もりを思い出し、胸に力を取り戻した。ダウンライトが点る廊下に、ハイヒールの音だけが悲しげに響く。見慣れたはずの我が家の扉は、別世界へと繋がる門のように感じられた。萌香は深呼吸し、離婚届を握りしめた。翔平との対峙は、彼女の人生を取り戻す最後の戦いだった。扉の向こうで、過去の呪縛を断ち切り、克典と克己との未来へ踏み出すために、萌香は一歩を踏み出した。インターフォンを押す彼女の瞳には、希望と決意が宿っていた。「・・・・はい」「萌香です」「開いているから、入れ」「分かりました」
第三十九章萌香が日本へ発つ日が決まった。その夜、萌香は初めて田辺克典と結ばれた。克典の優しい指先は萌香を蕩けさせ、熱い唇は彼女の身体に赤い花びらを散らした。それはまるで二人が二度と会えないことを予見するかのように、萌香の奥深くまで情熱的に刻み込まれた。抱き合いながら、萌香は克典の鼓動を感じ、未来への不安と希望が交錯した。克己の寝息が静かに響く部屋で、二人は互いの存在を確かめ合った。「パパ、ば、ば、」「うん、バイバイだね」空港のロビーで、萌香に抱かれた克己は、克典の袖を小さな手で握り、愛らしく微笑んだ。萌香は目を細め、二人のやり取りを交互に見つめた。克己の無垢な笑顔が、彼女の心に温かな光を灯した。「克典くん、なに、永遠の別れみたいな顔しちゃって」「そうかな・・・」「大丈夫よ、帰ってくるから」搭乗チケットを手に、萌香は背伸びして克典に軽く口付けた。別れの瞬間、克典の瞳に宿る寂しさを感じつつ、彼女は微笑んだ。萌香と克己を乗せた飛行機は、カリフォルニアの青い空
第三十八章萌香は眩しい分娩台の上にいた。それはカリフォルニアの明るい太陽を思わせる光で、彼女の顔を白く照らし出した。波のように寄せては返す陣痛に耐えること四時間、額には汗が滲み、苦悶の表情が浮かんだ。唇を噛みしめ、痛みに耐えるたび、萌香の心には過去の記憶が蘇る。翔平との三年間の結婚生活は、愛というより重圧に満ちていた。すれ違いの日々、冷えた会話、互いの心の距離。だが、その中で芽生えた新しい命は、彼女に光をもたらした。田辺克典との出会いは、萌香の人生に新たな色を加えた。彼の穏やかな笑顔、優しい言葉が、凍てついた心を溶かしたのだ。今、陣痛の合間に萌香は思う。この赤ん坊は、過去の傷を癒し、克典との第二の人生を照らす希望の光だと。痛みがピークに達する瞬間、彼女は力を振り絞り、新しい命を迎える準備をした。その小さな泣き声が、萌香の心に響き、未来への一歩を刻んだ。「萌香さん、男の子ですよ」「男の子・・・・・」「とても元気だわ、頑張ったわね」萌香は涙を流し、赤ん坊のぬくもりを感じた。産室の静寂に小さな泣き声が響き、彼女の心を温めた。そこへ会社から駆け付けた田辺克典が現れた。手に深紅の薔薇の花束を持ち、穏やかな笑顔で萌香を見つめる。「萌香ちゃん! 男の子だったんだね!」
第三十七章萌香の胸は早鐘を打った。翔平が、自分が妊娠したことを知ったらどんな反応をするだろうか。彼はこの子を自分の子供だと認知し、久我家の跡取りとして、取り上げるかもしれない。萌香は、それだけはなんとしてでも避け、赤ん坊を守りたかった。緊張で口の中が渇いた。いつまでも居留守を使える訳もなく、萌香は震える指先で応答ボタンを押した。「どちら様でしょう?」萌香の他人行儀な返事が気に食わなかったのか、翔平は先の尖ったナイフを突き立てるように激しい口調で萌香を罵った。彼女はその言葉を聞いているだけで、三年間の辛く惨めな結婚生活が瞼の裏に浮かんでは消えた。唇を噛み、握り拳を作る。萌香は、母として毅然とした態度でモニターに映る翔平に話しかけた。「もう、お会いすることはありません。どうぞお引き取り下さい」「萌香! お前はまだ俺のものだぞ!」翔平はポケットから封筒を取り出すと、彼のサインが空欄の離婚届を広げて見せた。萌香は、まだ離婚が成立していなかったことに衝撃を受け、その場に座り込んだ。翔平の「不受理申出」が、彼女の自由を阻んでいた。あの夜の暴力、復讐に囚われた彼の執念が、なおも彼女を縛る。萌香は腹の子に触れ、決意を新たにした。「この子は私
第三十六章萌香がカリフォルニアでつわりで苦しんでいる頃、翔平は日本で彼女を探し回っていた。二ヶ月前、突然ポストに投函されていた萌香からの離婚届に衝撃を受けた。翔平は、勝手に離婚届を出されないよう、区役所で“離婚届不受理申出”の手続きをした。(どこに行ったんだ!)萌香の母親が入院していた病院に向かったが、ベッドはもぬけの殻で、ビープ音のない白いベッドがあるだけだった。ナースステーションにどこに転院したのかと尋ねたが、「個人情報ですから」と事務的な返事が返ってきた。当然、一千万円近くの入院費用は一括で支払われていた。翔平の胸に怒りと焦りが渦巻く。翔平は、公証役場で萌香に声をかけた田辺という男を思い出した。田辺克典はオークションで一千万円を支払う財力を持っている。萌香の母親の入院費用も、田辺が工面したに違いなかった。翔平は田辺克典の足取りを追うため、知人の調査会社に連絡した。「絶対に見つけ出す」ところが、埼玉県川越市にある田辺の実家は古びた一戸建てで、到底、金回りが良いとは言えなかった。家から出てきた年配の男性、おそらく
第三十五章萌香は、彼の復讐が盲信であったにも関わらず、離婚に応じない翔平の姿勢に苛立ちを感じるようになっていた。そこには僅かな情が陽炎のように揺れていたが、それもやがて儚いものへと変化した。萌香は、サインをした離婚届を翔平のマンションのポストに入れた。もう後戻りはしない。確固たる思いが萌香を支配した。「お待たせ」「早かったね」「ポストに入れるだけだから」彼女は翔平から逃げるため、田辺克典とアメリカに渡航することに決めた。母親の多額の入院費の支払いも済み、最先端の治療を受けられるようカリフォルニアの病院に転院する手続きも済ませた。「ありがとう、田辺くん」「いいんだよ」田辺克典は、翔平との離